イベント情報_東アジア文化都市2016奈良

維新派『アマハラ』平城宮跡公演

スタンディングオベーションで維新派最終公演を讃えた会場。「ありがとう!」の声が飛び交いました(千秋楽)</
スタンディングオベーションで維新派最終公演を讃えた会場。「ありがとう!」の声が飛び交いました(千秋楽)
 

■実施日時:平成28年10月14日(金)~24日(月)
■時間:開演 17:15(屋台村開場 16:00/客席会場 16:45)
■会場:平城宮跡(東区朝堂院)
■スタッフ:脚本・構成 / 松本雄吉 , 音楽・演奏 / 内橋和久 ほか

 
1970年、23歳のときに「維新派」を結成した主宰の松本雄吉さん。今年6月、念願の平城宮跡公演を目前に逝去され、図らずも本公演が維新派の最後となりました。
アジアをテーマに“海の道”を可視化した作品、『アマハラ』。
日本を代表する劇団「維新派」の伝説として残るだろう本作の会場・平城宮跡の東区朝堂院は、連日大勢の来場者で溢れました。
初日の幕開けには生駒山に沈む赤い夕陽が舞台を照らし、公演期間中も雨の天気予報を跳ねのけ続け、千秋楽には11日間でいちばんの青空。大粒の星のきらめく中で、維新派の幕は閉じました。その瞬間ごとに、維新派の皆さんは松本さんの存在を感じていたのだそうです。
松本さん、維新派の皆さん、今までお疲れさまでした。
 

【フォトライブラリー】


  • 生駒山に沈む夕陽を背景に取り込むように設計された舞台

  • 現場リハーサルの様子

  • 舞台1

  • 舞台2

  • 舞台3

  • 舞台4

  • 屋台村(公演前)

  • 屋台村(公演後)

  • 主宰 故・松本雄吉さんの写真展示(屋台村)

  • 主宰 故・松本雄吉さんの写真展示(屋台村)

  • 屋台村 パフォーマンス

  • 屋台村 販売ブース(飲食、雑貨など)

  • 屋台村 ライブハウス

  • みやと通りから会場をつなぐ通路

  • 設営の様子 10月9日

  • 解体の様子 10月25日

 

【会場でお会いした関係者の皆さんにお聞きしました】

内橋和久さん / 維新派 音楽監督
 
「喋らない台詞、歌わない音楽、踊らない踊り」をコンセプトとした独特のスタイルを持つ劇団・維新派。
劇中のセリフは少ないものの、本作では、大阪弁や、(ニュージーランド公演で先住民族マオリ族から歓迎の儀式を受けた際に故・松本雄吉さんが興味を持たれたという)マオリ語などを多用するなど、言葉から受ける印象は、異界にいるような不思議な印象として心に残ります。
その印象を強く引き立てているのが、5拍子もしくは7拍子といった、奇数拍子による独特のリズム。これらを作り出している音楽監督の内橋和久さんに、アマハラ制作にあたってのお話をお聞きしました。

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── 奇数拍子について
古い作品を聴いてもらうと分かると思うのですが、維新派は設立当初は4拍子のリズムでやってきていました。
奇数拍子については、もともと僕が奇数拍子が好きだったんです。それを32年前に松本さんと出会い維新派の音楽作りに携わり始めてから提案したわけです。こんなのあるよ、こんなのやってみたら面白いよ、と。それを実際に松本さんが面白がってくれて、どんどん作品に取り入れていくようになりました。
 
僕はもともと日本人には奇数拍子が合うと思っていました。日本人って、ワルツ(3拍子)、好きでしょう。昔からある短歌や俳句も、5・7・5と、奇数でできている。だから、奇数拍子というのはそんなに珍しいことではなくて、慣れるとそちらの方が自然に聴こえてくるかもしれません。僕はもう、何も考えなければ5拍子か7拍子しか出てこない。
 
奇数拍子って複雑なようで、実際は、7拍子は4拍子と3拍子がくっついたもので、5拍子も、2拍子と3拍子、あるいは4拍子に1余りがあるようなもの。というように、実は単純な組み合わせでできているので、いろんな形ができるんですよね。
要は、それをどんな風に解釈するか、ということです。
 
『アマハラ』の中でも、例えば役者が木を叩くシーンなどで用いましたが、5拍子のときにいきなり曲だけ4拍子に切り替えて、でも役者たちは5拍子を続けていたり、その逆をしてみたり。そうなるとお客さんは何が起こっているのか分からなくなる。人がハッとする瞬間って、頭が理解できなくなるときだと思うんです。強い音に驚いた時も同様。それを頭で理解して聴きだすと、慣れて全然違う音になってしまう。
 
舞台の曲は「ミニマル・ミュージック(反復音楽)」をやっているので、同じパターンが反復すると、お客さんは飽きてしまう。それをサイクルが分からないように、こうしてリズムを複合で同居させて、錯覚させるというトリックを使っています。
聴こえ方がパッと変わる瞬間、これはなにより僕自身が楽しんで演奏していますね。
 
── 最終公演に対する想い

『アマハラ』の終わり方については、特に皆んなで協議を重ねました。音楽に関しては、本作の10曲目『おかえり』は、僕はカーテンコールのつもりで作りました。
曲の中では、松本さんの使ってきた言葉を集めて合成しています。だから松本さんの言葉ばかりが散りばめられているんだけれど、そのせいでちょっと切なくなるから、楽しい曲を作ろうと思って、明るい曲にしたの。でも、余計に悲しくなっちゃって……逆効果。(苦笑い)
とにかくそういう意味で、僕はあれを最後の曲として作りました。『アマハラ』の最後だけでなく、維新派の最後の曲、として。
 


 
白藤垂人さん / 維新派 美術担当
 
劇中のM5『ベンゲット』の道路建設のシーンで、大きな可動式セットの出現に驚かれた方も多いのではないでしょうか。
美術スタッフとなる以前には屋台村ディレクターを務め、屋台村を維新派の名物のひとつと言われるまでに大きくしてきた立役者のお一人でもあり、長年の維新派をみてこられた白藤さんに、千秋楽を前にお話をお聞きました。


── 初期の「屋台村」について
僕の両親がもともと維新派の役者をしていて、OBになってからも屋台村に店を出していたので、幼少期から屋台村で遊んでいました。ここの屋台村にも子ども、多いでしょう。関係者のお子さんが多いんだけど、僕もこんなかんじでした。
 
屋台村はもともと役者とスタッフの為のものにできたもので、今ほど大したものではなかったんですよ。
維新派がまだ「日本維新派」だったころ(※1970年、故・松本雄吉さんを中心に日本維新派として旗揚げ、1987年に維新派と改称)、南港のフェリーターミナルで毎年公演をしてたんだけど、周りに自動販売機すらないようなところで。関係者同士や、来てくれたお客さんたちとゆっくりお酒を飲みながらゆっくり喋る場所がほしいという声が上がりはじめたのが屋台村の始まりです。ちなみに、一番最初に屋台を始めたのはうちのおかあちゃんやったんよ。今も(指をさしながら)あそこでワイン売ってます(笑)。今回は維新派の最終公演ということで、日本維新派の頃の人もいっぱい来るだろうから、46年ぶりに出店をお願いしてみました。
 
話を戻して、舞台をつくってライブでもやろうということになって、80年代に故・西岡恭蔵さん達が唄い始めたのがライブステージの始まりです。そして当時、大阪で「春一番」という野外コンサートでプロデューサーをしていた故・阿部登さんが、松本さんと親しかったこともあって関わり始め、そのころからライブスケジュール等がしっかり組まれるようになりました。その阿部さんが亡くなる少し前から僕のほうでライブブッキングを引き継いで、そこから屋台村ディレクターと兼務して両方やるようになりました。
サーカスがはじまったのは、2010年の『台湾の、灰色の牛が~』の前の頃。一芸人として活動していた現団長の清水ヒサヲさんが身体を壊してスランプに陥っていると相談を受けたときに、「この犬島公演で、リハビリがてら軽くパフォーマンスでもしてみれば」と誘ってみたのがきっかけです。そこからどんどん派手になって……メインを張るぐらいの勢いで大きくなっていって、今では空中ブランコまでし始めた(笑)。なんでも受け入れるのが屋台村の懐の深さかな。
 
── 屋台村ディレクターから大道具スタッフ、美術スタッフへ
僕が24歳のころ、それまで勤めていた建築会社の倒産を機に、チーズちぢみの屋台を出してみたことが実際に維新派と関わり始めたことのきっかけでした。
しばらくして、2002年、犬島公演最初の『カンカラ』の頃に、舞台監督の大田和司さんから「垂人、そろそろ海外公演もあるだろうし、こっち(舞台)の方もやってみないか」と誘われました。それまで「屋台村を大きくして維新派と勝負したる!」ぐらいの勢いで屋台村ディレクターをしていたのに、「海外公演かぁ、ええなぁ」と、即答してん(笑)。そんな経緯で2003年に東京新国立劇場『nocturne』で大道具スタッフを担当するようになってから、屋台村ディレクターと舞台スタッフと兼務するようになりました。
 
今回は美術として舞台を担当しましたが、仕事の基本は、松本さんのイメージを具現化するというような作業が多かったかな。あまり自分でデザインするということはなかったし、周りからも色々と言われながらだった。ただ一つ、今回松本さんから「丸太のオバケみたいなんを考えて作ってくれ」と頼まれて作った舞台は、誰からも文句を言われずにすんなりと実現したかな。過去の『台湾の、灰色の牛が~』のどれにも負けへん、とにかく過去最大の丸太を作って、舞台を全部あれで埋めたかった。M5の『ベンゲット』のシーンで出てくるのが、それです。
 
── 「最終公演」に対する想い
最後ということは、時々よぎるけれど、考えないようにしているかな。それよりも最後のバラし(舞台の解体)まで気が抜けないから、今は考える暇もない。
ただでも、屋台村を長年一緒に大工作業してつくってきたメンバーたちと年一回集まるのが当たり前やったから、寂しくなるな。毎年維新派のチラシが刷り上がると、そこに自分たちの名前が、事前確認もないまま書いてあるん。すごいやろ?だから裏ではチラシを「召集令状」とも呼んでたんやけどね(笑)。それを見て、しゃあないなぁと言いながら、でも実際は喜んで集まってた。そんなノリでやってきたメンバーと、当たり前に集まってた場所がなくなるのは、やっぱり寂しいな。
 


 
平野舞さん / 維新派 キャスト
 
『アマハラ』が無事に上演まで辿り着いた裏側には、6月に他界された主宰の松本雄吉さんに代わって指揮を執るために結成された「演出部」の奮闘があったようです。
千秋楽を前に、その「演出部」でリーダーを務めた、平野舞さんにお話をお聞きしました。


── 「演出部」の活動内容について
『アマハラ』上演まで辿り着くためには、未完成だった脚本を考え、振り付けや稽古内容、全体の進行スケジュール等まで、自分たちで完成させる必要がありました。
それらの膨大な作業はとても誰か一人でできるものではなく、かと言って大人数の多数決で全てを進めるわけにもいかない。ということで、『アマハラ』の元になっている前作『台湾の、灰色の牛が~』に出演し、かつシーンの振り付けを担当したことのある役者6人と、長年松本さんに付き添い、そばで稽古を観てこられたSEの佐藤武紀さんの7人とで、演出部を立ち上げました。
実際には、松本さんが遺してくれた『アマハラ』の構成表をそもそも形に起こすことが可能なのかを判断するような、初歩的なところからのスタートでした。
 
── 平野さんが演出部リーダーを務めた経緯
松本さんの病気が進行する中で、病室にいる松本さんと稽古場にいる私たちの間を行き来しながら作品作りを手伝う外部の演出助手を募集したのですが、稽古もある程度進み、状況も刻々と変わっていく中で、その演出助手は、やはりそこまでの成り行きが分かる維新派の現役の役者の中から出るべきではないか、と考えました。
自分にセンスや能力があるとは思っていませんでした。でもとにかくその時点では、この公演をどんなやり方でも形にしないといけないという気持ちが強くあり、また24年間松本さんの作品に携わってきた自分に、松本さんが舞台に対してどういう考え方をするか、何を大事にしてやろうとしてるかというのは分かる気がしたし、それを尊重してつくっていきたかった。それで、私がやりますと言わせていただきました。(制作の山崎佳奈子さんによると、生前の松本さんご自身が、平野さんが稽古場を仕切ることを望んでおられ、おそらく役者全員の考えも一致しておられたのだそうです。)
 
しかし実際に演出部が結成されたのは、6月下旬、松本さんの葬儀後のことです。我々は本当に松本さんが亡くなるとは思っておらず、最後まで松本さんが指揮を執ってくださると、松本さんがいくなるということは考えられなかったんです。
最後までそのような状況でしたので、亡くなられてから、公演中止という選択肢も実際にありました。
私自身も、維新派は松本さんあっての維新派、松本雄吉という人の感性や才能あってこその維新派という気持ちでずっと松本さんにくっついてやってきたので、松本さんがいなくなってしまった時点で、維新派の公演をやる理由は見つけられずにいました。
 
── 公演中止の可能性もあった中、完成まで辿り着いた理由とは
松本さんがすでに舞台の廃船のデザイン画と模型と、そして構成表まで仕上げておられたことが大きかったです。これらがなければ厳しかったんじゃないかな。
そして、ここ平城宮跡でのポスター撮影を終えていて、松本さんの作品と言えるものが概ね形として出来上がっていたということ。また、やはりこの平城宮跡に魅力があり、私たち自身も、ここに自分たちが立つのを観たいという気持ちがありました。
 
私自身は、松本さんの葬儀に、私の入団前の維新派関係者などたくさんの方が参列に来られているのを見ながら、昔の維新派の人たちの出会いや縁が積み重ってきた上で、自分が今こうして維新派で楽しくやれてきたんだということを感じたんですね。そしてその方たちから、平城宮跡での舞台を観たいとおっしゃっていただく中で、自分の気持ちが移り変わっていって、この公演をかたちにしたいと最終的に思い至りました。
 
しかし実際、やりたいという気持ちだけでできるような簡単なことではありませんでした。
まず最初に、あんなこと、こんなことがあっても本当にやれるのかと、シビアな要素を論った自問自答を、役者もスタッフも皆んなで繰り返しました。なかなか意見はまとまらなかったんですけど、勢いだけでやろうとしたらきっとどこかで躓いていたと思うので、ブレーキをかけながら、落ち着いて考えられる時間を持てたことが結果的に良かったと思っています。
 
── そのような経緯で今に至ります。毎日どのようなお気持ちで舞台に立っておられますか
それはですね、日によって全然違うんです。
偉そうな言い方になってしまいますが、プチ演出家というか、演出部のリーダーとして、毎日の公演をビデオに撮ってチェックして、自分が気付ける範囲のことを役者に夜中か朝までのうちにメールで伝えるということをしています。だから、すごく集中して冷静に立っているときもあります。
一方で、例えば夕陽が綺麗だった日とかは気持ちがこみ上げて、冒頭のシーンめっちゃよかったな、松本さんに見せたかったな、とか思いながら、家に帰ってずっと涙が止まらない日もあったり。いろんな気持ちになってしまうのが正直なところですね。感傷的に進めてはいけないので、切り替えようと努めてはいるのですが……。
 
── 無事に千秋楽を迎えることについて
今回はほんまにスタッフの皆さんの力が大きかったです。ずっと役者として出演してきた自分が、今回は演出リーダーということで、松本さんがずっと観てきてた光景と同じ立場に自分がいると思うと、えらいことやなぁというプレッシャーが凄かった。私たちはソフト面というか、演劇の内容しか分からなかったので、音響とか照明とかレイアウトとか、総合的な要素を加える作業においては、松本さんと長年それを一緒にやってきてた人たちの力がなかったら絶対に無理やったなと思っています。皆さんが、松本さんが亡くなった後も一人も欠けることなく維新派に関わってくれると言ってくださったのが本当に有り難かったです。松本さんとやってきた積み重ねを、私たちに分けてくださいました。
『アマハラ』を、追悼公演というだけではなく、絶対にいい作品にしなければと、作品として自立したものにしなければと思っていたので、ときは厳しい意見を受けたこともありましたが、甘やかさずに一緒にやってくださったことに本当に感謝しています。
 
そして毎日たくさんのお客様が観に来てくれて、「松本さんに『今まで有難う』と言える場所を作ってくれて有難う」と声をかけられたりします。
ここで出来て良かった、ここに居合わせられて良かったという想いです。
 


 
吉本有輝子さん / 維新派 照明
 
「廃船」をモチーフとしながら、製作者側には「神殿」や「大きな棺桶」とも意図されたのだという、本作『アマハラ』の舞台。それは観る側には、凄まじい戦場のようにも、時には桃源郷のようにも映りました。あまりにも自然に世界観へ引き込まれていきますが、改めて写真を見返した時に驚くのが、巧みなライティングの存在感。
大学在学中より舞台照明の分野を切り拓いてきたというベテラン舞台照明家の吉本さんに、千秋楽開演直前に少しだけお話をお聞きすることが出来ました。

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── 『アマハラ』の照明のポイント
本作は、前作『台湾の、灰色の牛が~』を再構成した内容ですが、それゆえに、同じ空間を全く違う舞台の形にどう当てはめて作り直していくのかということは難しく、かなり考えました。前作はセットに電柱がいくつかあって、それを頼りに場所の感覚を作っていましたが、本作ではひとつの空間で作り替えています。
そして内容的にも、死んでる人と生きてる人が合う場所というような意味合いがありますが、それも淡々とした中で演出しました。
 
── 松本さんとの想い出を聞かせてください
松本さんは本当にビジュアルが好きな方でした。私自身も美術家でもあるし、よく二人で熱く話をしていました。そして私の照明がいいと、いつも「ええなぁ、吉本さん。」と言ってくれていたのが励みになっていました。
この5,6年、松本さんは外部の演出も忙しかったのですが、基本的に私もそれに全部付き合っていたので、年に2本とか3本とか松本さんと一緒にやっていました。打ち合わせなども含めると、本当にご一緒していた時間が長かった。やっぱり、寂しいですね。やっぱり、これも、見てほしかったというか……。最終公演、一生懸命やります。
 


 
宮城聰さん / SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督
 
9月に同じくここ平城宮跡で『マハーバーラタ』上演を行った劇団SPACの芸術総監督・宮城聰さんにゲネプロでお会いしました。

── 同じ場所で、同じようにひとつの作品を作り上げられた宮城さんの目に、『アマハラ』の舞台はどう映りましたか
僕がつい1か月前まで見ていた同じ場所なのに、全然違う景色という気がします。
僕ね、松本雄吉さんという人とは、気が合うところがあったんじゃないかな、と感じていたんです。でもこうして作品を観てみると、舞台の向きにしても、アプローチがまったく反対からで、僕とは空間の把握の仕方が随分と違うんだな、と思って観ていました。夕陽が沈んだ後、西の空の色がだんだん変わっていくというのは、別にここに来なくても、毎日僕らのすぐそばにあることではあるんだけれど、でもそれを20分も30分もじっと見るということは、なかなか無いですよね。それをこの作品の上演を行うことで、作品の一部として、取り込んでいく。そこの目の付け所が素晴らしいと思いました。
 
そして『余白』の存在。余白に何か描いて埋めていくんじゃなくて、そのままに残しておいて、でもその余白は、覗き込むと人それぞれに、幻影かもしれないけれど、何かが見えてくる。そういうことを、松本さんはされている。そこは随分、僕のアプローチとは違うんですよね。
 
もっと松本さんの作品を観たかったと、なんだか今日は痛感してしまいました。
 


 
連日たくさんのご来場をいただきまして、有難うございました。